彼我の力量の差をここまで見せつけられてなお、マイミク登録を申し出ないチェリーボーイどもに私の文章意図の一端を開陳(カイチンと読むが、男性器のかゆみを沈めることとは関係がない)することで、だめ押しとしたい。昨日の日記の要点は、”オクタウィアヌス”と”キャミソール”の順序にある。これがもし逆だった場合、例のオチを今か今かと待ち構える諸君によって、”オクタウィアヌス”という語が秘し隠す「肛門」の暗喩はたちまち見破られ、諸君はしたり顔で私の意図を早々に看過した優越に浸っていただろう。しかし、オチの候補としては極めて有力な”キャミソール”の順序を最後に配置したがゆえに、諸君の意識は”キャミソール”に集中してしまったはずだ。しかし私の高邁な作為は、凡人でも鼻水を流しながら一生をかければたどり着けるようなこの段階では終わらぬ。更に”ブルマー”を並列したのである。ここに至って諸君は”ブルマー”か”キャミソール”かのどちらかにぶち込む、もとい、がぶち込まれる想像をしかできなくなっていたはずだ。そこに、濡れ濡れと輝くアヌスです。
前置きが長くなってしまった。ただ「みんな、愛している」と書きたいだけなのに、いつだって持ち前の羞恥心が言葉を増やし、最後にはほとんど韜晦のようにその中に埋もれてしまう……。おっと、こんな弱気な書きぶりじゃ、十代前半の婦女子くらいしか寄ってこなくなっちゃうよ!
あのですね、またホームページの話ですけど、公文書じゃないんだから、誰も客観性や整合性なんて求めてないと思うんですよ。少なくとも私は、歪んだ主観を読みたい。誰かの抱く主観が、つまり世界認識が歪んでいればいるほど、それはエンターテイメントに映る。間違っていれば間違っているほど、歪んでいれば歪んでいるほど、それは美しい。その破綻の面白さを客観性や整合性という観点から批評する人物とは、もう現実の位相そのものが異なっており、触れ合えない。主観と熱情に満ちた批評なら殴り合えるが、客観と冷静に満ちた批評はシースルーの半透明人間から当たらない半透明石を投げられるようなもの。不快ではあれ、効果は無い。持ち前の謙虚さがホームページに限定した書き出しを選んだが、以上はすべての物語に当てはまることでもある。辻褄合わせを放棄した人の作り出す主観をこそ、私は愛す。
誰に何を恥じることもない公明正大な私は、ほとんど上半身が直立するほど枕を高くしたまま、やすらかに記述を終える。